焼肉やすもりは関釜連絡船により、渡航した在日韓国人である祖父が立ち上げた本格韓国焼肉店です。
戦後の困難な時期を乗り越え、半世紀以上の歴史をもつ韓国焼肉の味は下関を代表する味にまで成長しました。
私たちやすもりはこの歴史と誇りを継承しさらなる発展を目指します。
生活の知恵から生まれ、今に受け継がれる逸品。
半世紀以上も地元に愛され続ける下関の味。
焼肉やすもりは韓国系の店が並び「リトルプサン」の別名でも知られる下関の商店街『グリーンモール』で創業しました。1905年、関釜連絡船により多くの韓国人が下関に渡ったことにより時代と共に下関での韓国コミュニティが誕生しました。当時はまともな職につくことも難しく、生活も苦しい時代でしたが、韓国での生活や食文化を活かす為の工夫をこらしました。当時はまだ安価で手に入りやすかったホルモンをメインにホルモン料理やすもり食堂として創業しました。鍋や鉄板を買うお金もなく、廃材の鉄板を叩いて簡易的な鍋を作りそこにホルモンや唐辛子、にんにくをいれて作られたのが「とんちゃん鍋」の誕生といわれています。何年もの間度重なる苦難を乗り越え、現在の焼肉やすもりへと成長しました。
焼肉やすもりと下関の歴史
1905年9月:日本の山陽汽船による「関釜連絡船」(釜山-下関)の就航
当時、朝鮮では多くの人々が土地調査事業で土地を奪われ、産米増殖政策で借金がかさんで生活苦にあえいでいました。さらに戦時労働動員で何十万もの人々が強制的に日本に連行されたという背景があったのです。ただ、渡航には、厳しい検問がありました。旅費以外に10円を所持し、日本語がわかり、就職先が確実な者のみが上陸を許されました。戦後、全国の在日韓国朝鮮人達が、下関からの出国を考え、下関に集まりました。しかし帰国後の生活への不安から渡航をあきらめた韓国朝鮮人は下関にとどまり生活を始めたのです。
韓国朝鮮人は、日本に渡ってからも朝鮮での生活や伝統を活かす為の工夫をこらしました。日本式の作法や習俗にはなじみ難く、自然と故郷での生活様式を持ち込む事になり、特に女性たちは民族服を好んで着て、韓国の料理を作りました。彼らに家を貸してくれる日本人はいませんでしたので、自分達で建てて暮らしていました。中には、オンドル(床下に暖かい空気を送り部屋を暖める装置。今でいう床暖房のこと)を備えた家もありました。日本社会の差別と偏見から助け合うため、次第に一ヵ所に集まるようになり、やがて集住地区が形成されました。
集住地には「故郷のにおい」がありました。唐辛子やにんにくをはじめとする韓国料理の食料、韓国服地、韓国食堂などの店があり、仕事の斡旋をしてもらうこともできました。故郷を離れた人々にとっては、気がねなく韓国語で話すことができる、唯一の心休まる場所でもあったのです。やがて同郷会や親睦会などができ、労働・民族運動の場ともなりました。日本に渡った韓国人は、韓国人集住地区で、お互いに助け合い、厳しい環境と闘い、民族的な伝統を守りながら生活していたのです。
焼肉やすもりは関釜連絡船により、渡航した在日韓国人である祖父が立ち上げた本格韓国焼肉店になります。
半世紀以上の歴史をもつ韓国焼肉の味は下関を代表する味といっても過言ではありません。
毎年リトル釜山フェスタと呼ばれるお祭りも開催されています。本格的韓国料理を食べたい方は、是非ご参加ください。